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職場のメンタルヘルス対策ガイドライン―WHOの提言 to action―

世界共通の課題「働く人のメンタルヘルス」

現代の働く環境では、心の不調はもはや個人の問題ではなく、世界的な公衆衛生課題とされています。
WHO(世界保健機関)が2022年に発表した「職場のメンタルヘルス対策ガイドライン」では、職場におけるメンタルヘルスの促進と、精神疾患の予防・対応を包括的に示しています。

背景には、うつ病や不安障害による生産性低下が全世界で年間12兆ドル(約1,700兆円)規模の経済損失をもたらしているというデータ(WHO, 2022)があります。日本においても、厚生労働省の調査で「強いストレスを感じる」と答える労働者は約半数。
このような状況を受け、国際的にも「メンタルヘルス対策=企業の持続可能性に直結するテーマ」として重視されています。

本記事では、WHOガイドラインの概要と、日本の産業衛生における実務的な活用方法を整理します。


産業衛生の観点から見た現状と法制度

日本では、WHOの方針を踏まえつつ、厚生労働省が「労働者の心の健康保持増進のための指針(2006年)」「職場復帰支援の手引き」を通して国内版のメンタルヘルス対策枠組みを整えています。
この中で注目すべきは、WHOが提唱する以下の3つの観点です。

  1. 予防的アプローチ(Prevention):不調の発生を防ぐ職場づくり。

  2. 早期介入(Early Intervention):兆候を見逃さず、早期支援につなげる。

  3. リカバリー支援(Recovery):復職・再適応を社会的に支援する。

これらは日本の「4つのケア」(セルフケア・ラインケア・事業場内・外部資源によるケア)と整合しており、国際基準と国内実務は方向性を共有しています。
特にWHOは「職場を健康増進の場とする」という理念を掲げており、単なる不調予防ではなく、働く人のウェルビーイングを高める職場文化づくりが求められています。


実務への応用 ― WHOガイドラインを現場で活かすステップ

① 経営層のリーダーシップと方針明確化

WHOは、経営層のリーダーシップを最も重要な介入要因と位置づけています。
日本の「こころの健康保持増進指針」でも同様に、経営トップが明確な方針を打ち出すことが第一歩とされています。
経営層が「メンタルヘルスは企業の価値を高める投資である」と発信することで、組織全体の行動が変わります。

② 職場リスクの評価と改善

WHOは、心理社会的リスク(Psychosocial Risks)への体系的な対策を強調しています。
これはストレスチェックの集団分析とも親和性が高く、データに基づいて業務負荷・役割の不明確さ・人間関係などを分析し、職場単位で改善策を策定することが推奨されています。

③ 管理職教育の標準化

WHOは、管理職教育を最も費用対効果の高い介入策としています。
「変化に気づく→声をかける→つなげる」というラインケアの基本を標準化し、社内研修やeラーニングで定着させることが実務上の鍵です。

④ 休職・復職支援の国際的視点

WHOは、復職支援において「本人の意思を尊重した段階的復帰」と「職場側の柔軟な適応支援」を求めています。
これは日本の「職場復帰支援の手引き」で示された5段階の流れ(主治医意見→産業医面談→復職計画→試し出勤→定着支援)と整合します。


産業医の立場から見た実践ポイント ― 国際基準の橋渡し役として

① データに基づく「組織診断医」としての役割

WHOガイドラインは、エビデンスベースのアプローチを重視しています。
産業医は個人対応だけでなく、ストレスチェック結果や勤怠データを活用して職場単位の健康課題を分析する役割が求められます。
その結果を人事・経営層にわかりやすく提示し、組織改善を促すことは、「医師としての提言」と「経営の意思決定」をつなぐ重要な橋渡しです。

② 組織方針への関与と政策提言

産業医は法令遵守だけでなく、企業の健康経営戦略の一部としてメンタルヘルスを位置づける視点を持つ必要があります。
WHOは「政策レベルでの健康推進」を推奨しており、産業医が衛生委員会で職場文化や制度の改善を提案することが、国際的にも理想的な役割とされています。
たとえば「ハラスメント防止指針の明文化」「勤務間インターバル制度の導入」など、具体的な制度提案も産業医が主導できます。

③ 多文化・多世代職場へのメンタル支援

グローバル企業や外国人労働者の増加により、文化・言語・価値観の違いが職場ストレスの要因となることもあります。
産業医はWHOが提唱する「文化的適応(Cultural Adaptation)」の視点を取り入れ、
– 面談時の文化的配慮
– 通訳やメンタル支援者の協働
– 世代間ギャップの理解(Z世代・ミドル層の価値観差)
など、多様性を踏まえた支援設計を行うことが今後の課題です。

④ 職場文化変革の「触媒」としての関与

WHOは「心理的安全性(Psychological Safety)」を持続的メンタルヘルスの土台としています。
産業医は制度の“運用監督者”に留まらず、信頼・尊重・対話が循環する文化をつくる「触媒的存在」として機能することが重要です。
たとえば、月例衛生委員会で「ありがとうの共有」や「感謝のミーティング」など、非医療的な施策を提案することも、実は心理的安全性の醸成に直結します。


まとめ:国際基準を“日本の現場”に根づかせる

WHOガイドラインは、世界的な健康経営の基盤を示したものです。
その目的は、単に心の病を減らすことではなく、**「誰もが尊重され、活き活きと働ける社会の実現」**にあります。

産業医は、国際的な知見を企業の実情に翻訳し、現場での実践を支援する“架け橋”です。
小さな改善でも、科学的根拠と温かいまなざしをもって取り組むことで、組織全体の健康度は確実に高まります。
今こそ、国際ガイドラインを“紙の指針”から“職場の文化”へと変えていく時代です。


参考文献

  • WHO. Guidelines on Mental Health at Work. Geneva: World Health Organization, 2022.

  • 厚生労働省「労働者の心の健康の保持増進のための指針」

  • 厚生労働省「職場におけるメンタルヘルス対策」

  • 厚生労働省「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」

  • 厚生労働省ポータルサイト「こころの耳」 (https://kokoro.mhlw.go.jp

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東京Engageコンサルティング

皆さん自身がEngageできる手助けをしたい。 心療内科医と労働衛生コンサルタントの資格を持ち産業医活動をしています。
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